「もの思う葦」太宰治

カバー装幀 唐仁原教久

以前、太宰作品は読まず嫌いであったけど、近頃(40を過ぎて)変わってきた。それでも、好き嫌いより共感できるものと(やっぱり)無理かな… と思うものがあることがわかってきた。

文庫概要

タイトルもの思う葦
著者太宰治
出版社新潮文庫

カバー装幀 唐仁原教久

内容紹介

概ね次のような構成で、奥野健男氏により編集されている。

  • Ⅰ (2篇)
  • Ⅱ (30篇)
  • Ⅲ (11篇)
  • Ⅳ (5篇)
  • Ⅴ 如是我聞
  • 解説 奥野健男

wikipedia で目にして、多少気に留めていたのだけど、川端康成(「川端康成へ」)や志賀直哉(「如是我聞」)への反論する作品が含まれていた。正直、自分も「うーん」と思ってしまうものの、解説者の言葉を借りた次の説明を読むと共感できてしまう。そういう微妙な感情を抱いてしまう作家だなと。

Ⅴの『如是我聞』は、『人間失格』を書いているあいまに、おそらくは文学青年時代、尊敬した志賀直哉ら既成文学者の、戦争期そして敗戦によっても、毫も変わらない思い上がり的な自信と、他への思いやりなさと、それらにへつらう若いとりまきの人々、外国文学一辺倒の主体性なき日本の文学者の権威主義と奴隷根性について、今まで胸に秘めて来た批判を、死を賭して爆発させた、まことに歯切れよい胸のすく、喧嘩的文章である。

太宰の文章を読みながら、一定の共感は得てしまう。もし太宰が主張する姿勢を太宰自身が貫いたのであれば、それはそれで認めたいと思う。

もの思う葦

「老年」というお題目で綴られた文章から。

次は藤村の言葉である。「芭蕉は五十一で死んだ。(中略ママ)これには私は驚かされた。(以下、略)」

島村藤村が驚き、太宰が驚き、先日50を迎えた自分も驚いたから、きっと驚く人は多いかも。松尾芭蕉の枯れっぷりは70歳くらいの印象よねと。

「絵はがき」というお題目で綴られた文章から。

(略)または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧躁。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生まれた宿命にあやつられながら、しかも、おのれの運命開拓の手段を、あれこれと考えて歩いている。

少なからず共感してしまった一文。自分も妙に着飾った観光地よりも、飾らないそのままの土地の方を断然好むけど… 妙に着飾る観光地、それはそれで誰か?のはかない願望やら期待も感じられて嫌いではないかも。

川端康成へ

結びの文章

ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない。

手厳しい。が、それほどまで作家を「間抜け」としながらも、賞をもらえなかった腹いせの姿勢?とか… 突き詰めるとわからなくなる。

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またポツポツ、太宰作品を読むうちに再発見がある気もする。