久しぶりに、川上弘美作品を読んでみた。

お久しぶりに川上女史の作品を読む
常々、真鶴(神奈川県)に行ってみたいと思ってまして、2022年夏に行ったのです。
その際、芥川賞作家である川上弘美女史の「真鶴」も読んでみたい!と思いつつ積読していたものの、結局行くタイミングも読むタイミングもちぐはぐで、読まずに真鶴行って、現在進行形作家を読みたい!という気分で今になって読んでみた次第です。
「真鶴」川上弘美(文春文庫)
真鶴へ行ってみたい目的の一つに、こちらの美術館もあった。一時期、故人・中川一政氏(自分にとっては画家のイメージ)の著書をいろいろ読んでいたが... 意外にも自分、このブログでは一切紹介していなかった。
ちなみに、川上女史の作品もいくつか読んでいるのですが... 好きになりたいと思いつつ、どうも自分の好みとはあわなかったりする。Why?
どのような作品か?
三浦雅士氏の解説「私という幽霊ーー距離にさわる言葉」から引用すると
『真鶴』は、現代に通用している普通の言葉でいえば、十二年前に夫が失踪したために精神を冒されかけた女性が、母と娘の三人暮らしのなかで、幻視幻聴に悩みながらも、自力で回復にこぎつけるほぼ一年間の、すなわち春、夏、秋、冬、そして翌年の春までの、苦悩の物語ということになる。
となる。
次のような氏の解説を読むと、自分の興味が掻き立てられるのだが、いざ読んでみると... やはり違和感が残る。
まったく同じように、『蛇を踏む』から『真鶴』へいたる過程は、現代文学において幽霊が洗練されていゆく過程なのだ。そう考えると、川上弘美の文学の稜線がよりくっきりと見えてくる。
「幽霊が洗練されてゆく過程」と思えば、確かに上手い!作品だと思えるのだが、そもそも割と現実的な自分の性格からして、この少し「精神が冒される」というシチュエーションが苦手なのかもしれない。
もちろん予兆はあった。古井由吉のたいての作品がそうだった。金井美恵子もそうだ。たとえば『鬼』。私小説というのは、ほんとうは、私という幽霊にこだわる文学を言うのだ。吉田健一の『怪奇な話』にしてもそう。批評家も同じ。小林秀雄はお母さんが蛍になる話を『感想』の冒頭に書いているし、『本居宣長』にいたっては宣長の墓の話を延々と書いている。だが、誰も幽霊が文学の主流とまでは思わなかった。
この解説文、自分にちょっと刺さった。
川上作品と直結はしないけど、現実生活の様子を借りて幽霊?(精神世界?)のようなものを描く作品に興味ある。
あくまで主観的な意見なので、作品の質を問うてはおりません(そもそも自分にそれだけの知力はない)。
かつて生物の先生という背景を持つ、女史の生物視点の描写はとても面白い。加えて、女の自分が言うのも妙であるけど、とても女性を感じる(女性が書いたと思える)作品だけど、今の時勢だと「女性って何?」となってしまうのかも。
この一冊でした
少し意地悪い言い方すると、作品の内容からして真鶴である必要性は乏しいと感じたが、この「真鶴(まなづる)」という響きはぴったりだなと。
